島根・温泉津温泉で過ごす週末

温泉津温泉とは、島根県大田市にある港町の温泉地です。有名な温泉地と比べれば規模は小さく、観光地化もほどほどですが、だからこそ味わい深い。石州瓦がゆるやかに彩る町並み、塩辛い海風、古い旅館の木造の廊下を歩く音—すべてが、日本の温泉地が本来持っていた風情を保ち続けています。

迷い込んだような町の朝

旅館の窓を開けると、目の前は瑠璃色の日本海。朝靄がまだ港を覆っていて、漁船のシルエットだけが浮かんでいました。旅館を出て町を歩くと、石垣の上に立つ古い家々、狭い路地、井戸端で顔見知りの方が立ち話をしている光景。それは映画の中のシーンかもしれませんが、ここでは現在進行形です。

路地の奥に小さな蕎麦屋を見つけました。のれんをくぐると、店内は薄暗く、天井は黒く煤けていました。常連らしき漁師たちが、朝から温かい蕎麦を食べています。「朝早くから、ようこそ」と女主人が笑みを浮かべて声をかけてくれました。こういうときのほんの少しの人情が、その町全体を好きになるきっかけになるのだと感じます。

湯に浸かる時間の贅沢

温泉津温泉は、七世紀には既に存在していたという古い温泉です。現在でも複数の旅館と公衆浴場があり、多くの訪問者がその湯を求めてやってくるのですが、その数は決して多くはありません。そのため、かけ流しの源泉に浸かるという体験を、ほぼ独り占めできるのです。

宿の大浴場は、床も壁も全て檜でできていました。湯気は天井のどこかから自然と上がり消えていき、その間、湯面は常に微かに揺らいでいます。湯温は程よく、長く浸かることができます。浴室の窓からは、遠く日本海が見えていました。人間がこんなにも単純に、湯に浸かることだけで満足できるのだということに、改めて気がつきます。

人間がこんなにも単純に、湯に浸かることだけで満足できるのだ。

素朴さの味わい

夕食は宿の食堂で供されました。派手さはないけれど、どの一品も丁寧に作られている。地元で獲れたという活きのいい刺身、山で摘んだ山菜の天ぷら、地元の豆腐を使った味噌汁。すべてが、この土地で育った食材で構成されています。景色も良く、窓からは夜間照らされた港の灯が映っていました。

翌朝、再び旅館の風呂に浸かりました。夜中の間も、源泉は休むことなく流れ続けていたのでしょう。温かく、それでいて不思議と飽きることのない湯の質感。朝日が窓から差し込み、湯面が金色に輝きました。

時間に逆らわない

温泉津温泉での二日間は、東京での生活では経験できない時間の流れ方でした。特別に静かではなく、特別に美しいわけでもないかもしれません。でも、人間が本来求めていた「癒し」というものが、ここに自然な形で存在しているのだと感じました。

帰り道、駅に向かう道すがら、何度も振り返ってしまいました。石州瓦が並んだ屋根、細い路地、港の匂い。すべてが懐かしく思えるのは、それが日本の旅館文化が本来持っていた形だからかもしれません。次にこの町を訪れるのは、いつになるだろう。そう思いながら、電車に乗り込みました。